2015年3月15日日曜日

「第1回日本漢文学総合討論」(3/23)パネルディスカッションの要旨です

パネルディスカッション1
「日本漢詩の古典化と近代の文芸批評及び教科書」
 日本漢詩文のうち、どの作品が、名詩や名文と呼ばれるかは、その時代時代の思潮や教育が大きな影響を与えている。本パネルでは、主として江戸時代の漢詩を対象として、明治期以降、どのような過程を経て、名詩となったか、すなわち、古典化されたかについて検討する。明治期以降を通覧した場合、とくに古典形成の動きがとくに顕著な時期として、明治30年代(1900年代頃)と、昭和40年代(1965~74年頃)を挙げることができる。
 明治30年代は、1904(明治37)年に国定教科書が採用され、それまで多様な試みがなされていた中学漢文教科書が一定の方向に集約され、掲載される漢文作品の質が統一的になった時期である。と同時に、小説などを通じて、広瀬淡窓「桂林荘雑詠示諸生」などの詩が一層人口に膾炙することとなった時期でもあった。
 一方、昭和40年代は、富士川英郎や中村真一郎が競うように江戸後期の漢詩人の作品を紹介した時期である。彼らの日本漢詩評価の背景には、ドイツ文学をはじめ西洋を強く意識した普遍主義的な詩歌観がある。真夏の昼下がりの山村の情景を活写した菅茶山「即事」(「渓村無雨二旬餘…」)は、富士川が取りあげて初めて愛唱されるようになったと考えられる。
 なお、本パネルでは、日本漢詩の海外における受容状況についても検討を行う。英語圏や中国では、どのような作品が知られているのかについて、翻訳状況や詞華集・注解書への収録状況から考えてゆく。

パネルディスカッション2
「祖述の様相-近世詩文の内なる唐土-」
 荻生徂徠によって首唱された古文辞学の拡がりは、たしかに近世詩壇における一大事件であり、徂徠を囲む蘐園派の詩人たちの精力的な活動は、木下順庵門下の新井白石や祗園南海、また梁田蛻巌らのすぐれた詩人たちが盛唐詩を重んじたのと相俟って、1720年代から約半世紀にわたる盛唐詩ブームを招来した。
 安永・天明のころ(1772~1789)反古文辞の気運が高まり、18世紀末から19世紀初頭にかけて宋詩風―ことに南宋詩に傾倒するもの―に詩壇が染められたというのが通説である。しかしながら、当然のこととして、盛唐詩風か南宋詩風かといった単純な色分けで実際の詩人たちの営みが捉えられるものではなく、例えば宋詩風の旗手とみなされている六如に深い杜詩への理解があったことは、黒川洋一らによって夙に指摘されている。
 反古文辞を掲げる詩人たちが否定したのは、「唐詩」を重んずることではなく、「盛唐詩に擬える」手法そのものであり、唐人よりも直接的には明人―明代の古文辞派詩人―に学んだ唐詩の受容のしかたにあったのである。この明人を介した盛唐詩の模倣ではなく、真の唐詩風の詩を賦すのだという主張は、古文辞派の流れを汲む龍草廬などにもすでにみることができる。ポスト古文辞の口火を切った大坂の混沌社や南宋詩風を取り込んで賦作を行った江戸の江湖詩社社友、六如の影響を受けて新風を開拓した菅茶山ら次世代の詩人たちにとっても、盛唐詩が詩の正鵠を得たものであるとの認識に相違はない。しかし、より新しい表現の可能性を求めて、また、自らの性情の発露としてよりふさわしい表 現を求めて、詩人らはさまざまな可能性を模索する。その模索は、すでに親しい漢魏六朝や宋代はもちろん、古文辞派以外の明人や清人の賦作にも及ぶのであるが、唐代に限っても、盛唐以外の詩人たちに注目する者、新奇なジャンルを開拓しようとする者が現れる。
 すなわち、それぞれの詩人たちが唐代の詩といかに対峙し、いかに受容したかを検証することは、極言すれば、江戸時代の詩史をたどることそのものにも等しい。
 本パネルでは、中晩唐詩の影響や竹枝詞の流行などさまざまな角度から唐詩受容の様相を探るほか、日本の詩人たちが唐詩からいかなる詩法を獲得し、いかなる詩論を学んだかという問題、さらには、明代古文辞派の朝鮮における受容を比較の対象とするなど、さまざまな方法論を提示しつつ、江戸時代における唐詩祖述の様相を明らかにしたい。

パネルディスカッション3
「日本漢文学の基層-宗教・学問・歴史-」
 日本漢文学史を記述するには、様々な視点、方法があろう。主要作品や作者を時代順に並べる方法はもっとも古典的であろうか。他にも典籍(漢籍)の享受に主眼を置く方法もあれば、表現方法の変遷(典拠となる素材、中国典籍・作品の変遷)などを辿る方法もあろう。
 本パネルでは、漢文学の「基層」という点に着目したい。漢文学の表現自体、作品自体を検討するのは当然であるが、それらの基づく、思想や学問、それらを生み出す制度や作者の立場に注目するのである。
 例えば、古代の漢文学は、律令社会と不即不離の関係にある。律令官僚の養成に必須の学問として儒学があり、儒学を学んだものこそが官僚として組織を支えていた。平安時代の漢詩人は、多くはそうした官僚であったのである。そうした制度、学問、人を基盤として、漢文学は支えられていたのである。
 本パネルでは、古代から近世までの日本漢文学史を、その「基層」の面から捉え直そうとする試みである。

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